(記録)10月の発表

今月の某日、ヘンリー・ジェンキンスについて半年ほど調べていたことを発表しました。

久しぶりの発表でガチガチに緊張して、終始頭が真っ白でしたが、「2000年以降のジェンキンスは議論の中身よりも彼自身の「パブリックインテレクチュアル」としての振る舞いの方が面白い」という話ができたのでよかったです。

自分にとっての頭の整理にもとてもいい機会でした。発表の機会を供してくださった某研究会の方々に感謝します。

『オタク的想像力のリミット』雑感(ファン・スタディーズと「オタク研究」の関係) 

ファンスタディーズの歴史を掘っていると、「ファン」というカテゴリ自体がとてもスキャンダルであるということを出発点としていたり、実際に取り上げられたのがSF出自のコンテンツの消費者であったりということを知るにつれ、なんだか日本の「オタク」っぽさを感じざるをえなかったときから、ファンスタディーズと「オタク研究」という知は、どんな点が同じだったり似ていなかったりするのかが気になります。

『オタク的想像力のリミット』を読みなおしたら、末尾の宮台インタビュー(の再編成)で面白いエピソードが書いてあったので、備忘録的にメモ。

インタビュアー(辻泉さんと岡部大介さん)によると、編著者のひとりである伊藤瑞子さんが本書の構想をしていたとき、アメリカの「WASPのファンカルチャー研究」と「オタク論」を「あえて」接続しようとしていたらしい。けれど、その試みは失敗したらしく、その理由が「アジアに対する根強い差別」が残っていたからと(p.507)。いったいどういうことなんだろう。

伊藤瑞子さんは、ヘンリー・ジェンキンスといっしょに「デジタルメディアと学習」という研究グループにいて共同の対談集を出したりしている人(MITメディアラボ所長・伊藤穣一の妹)。ギーク文化や若者のメディア利用を対象とした本を書いてて、当然欧米のファンスタディーズの動向についても熟知している。その人が、両者を「接続」しようとしたというのだけど、具体的に「接続」ということで何をしようとしていたのでしょうか。

それから、「アジアに対する根強い差別」が「超えられない壁」になっていたという点も、これだけでは何を言っているのかわかりません。編集者から差別的な返答を受けたのか、他の研究者に駄目出しされたとき差別的な発言を受けたのか、何に対しての差別的言動だったのかとか。差別的ととらえられた言動があった以上、誰が・なにに対してなどと第三者が軽々に聞くのもはばかられますが、いつの日か詳細が知りたいです。

ちなみにこれをうけて宮台さんは、日本のコンテンツが社会の中の周辺的な人々から享受されやすいことを指摘して(言い換えると、それによってファン研究が対象とするコンテンツは、「中心的」な人々から享受されやすいものを対象としているとほのめかして)、両者はつながるはずがないと述べています。

ファン研究が対象としていた人が(少なくともSFコミュニティで)周辺にいた人だったり、ファンカルチャーとマイノリティのエンパワーメントという近年のテーマをよく見ることを考えると、中心とか周辺は相対的なものとして考えた方がよさそうなので、なんかこのコメントにはのれませんでした。

ジェンキンスはいつから、なぜfanという概念を重視し始めたのか?

「ファン」とはだれだろう?

体力がへなちょこすぎて、仕事から帰ってきて英語を読もうとすると眠さでウトウトしてまったく調べものが進んでいません。

「何かわかった」的な文章を書きたいのですが、ネタがないので引っかかってる疑問を投げっぱなしで投稿します。

ファンスタディーズについて少しでも見通しをつけようとしてレビュー論文を読むと、だいたい3つの著作(論文)が最初期の研究として挙げられることが多いです。

ひとつはカミラ・ベーコン=スミスの『Enterprising Women(訳が分からない)』、次にコンスタンス・ペンリーの「フェミニズム精神分析、ポピュラー文化研究」、そしてヘンリー・ジェンキンスの『テクスト密猟者』です(たとえばBusse & Gray 2014)

中でも、だいたいファンスタディーズのレビュー論文とか、後続の研究者の仮想敵とかだと、圧倒的にジェンキンスの著作が頻繁に引用されている感じがします。

実はこの3つ、どれも特定のジャンルのファンを対象としていて、別にジェンキンスが網羅的にいろんな種類の「ファン」にインタビューしたとかいうと、そういうわけでは全然ないです。 では、なんでジェンキンスばかり引かれるんだろ、と読んでみると、頭から「ファンのスキャンダラスな表象」とか「ファンというカテゴリ」とか、そのものずばり「ファン」という概念を問題視して、それを転覆させてやろうという意図がみなぎっていること限りないからだと思われます。

だから彼がエスノグラフィの対象としたのは、ごくごく特定のファンなのだけども、「ファンはこんなにスキャンダラスに見られている」というために、セレブのファンや映画ファンやコミックファンやスポーツファンや音楽ファンに、ちょこちょこと言及していくし、下のようなことも言う。

Much of what I say about this group applies to other fan cultures aw well, some of what I say applies to popular reading more generally, yet my claims are more modest, focusing on this one subculture and its tradition.(Jenkins 1992: 2)

 上の三つの著作はいずれも同じ対象を扱っていると述べましたが、これらはどれもスタートレックシリーズのファンや、そこから派生した「メディア・ファン」を対象として取り上げています。このメディアファンという対象やその実践(e.g.スラッシュフィクションの創作)自体は、3人以前からさまざまな研究者が取り上げていますが、メディアファンを取り上げつつ同時に「ファン」というカテゴリ自体を問題化したのは、ジェンキンスがはじめてなんだろうだと思います(たぶん)。

初読の時「なぜ「ファン」というカテゴリに、ここまでこだわったんだろう」というのが、率直な感想でした。 日本語の語感との乖離というのもそうなんですが、たとえば「スポーツファン」と「メディアファン」という存在を、ファンという言葉でひとくくりにするというのはだいぶ乱暴な気がしたからです。

上の2つのファンは全然別物であることは、ジェンキンスも本の中で認めています。 それでもあえて、「ファン」という言葉でもってなにかを名指して、それを擁護するような姿勢を見せていたのはなぜなんでしょう。

積年の謎です。将来の自分が答を出していることを望みます。

ヒントになりそうなこと

ひとつは、『テクスト密猟者』出版と同年、同じように「ファン」というカテゴリを問題化した『熱狂的オーディエンス:ファン文化とポピュラーメディア』という論集が出たりしていることです。 ジェンキンス以外にもこのカテゴリにこだわった人々がいたということは、ファンという言葉自体が、この時期に何かしらの重みをもって認知されていたんでしょうか。

この方向で考えを進めると、当時この概念がどういう状況にあったのかを見ていく必要がありそうです。

もうひとつは、ツイッターでフォローしている方のつぶやきから、ちょっと思ったこと。

「ファンスタディーズの大部分はオーディエンススタディーズの一部から生まれたもの」(Busse & Gray 2014; 427)という話もあわせると、オーディエンススタディーズの界隈の人たちが、次の「新しい学問領域」を名指すときに掲げる看板になったのかなという思わなくもないです。 (●● Studiesという言い方、いつ頃から広く使われるようになったんでしょうか)

上のヒントが社会の状況から謎を解くヒントになるとすれば、こっちは学問をする側の事情。

ここまでくると、そもそも「ファンスタディーズ」という形で、ジェンキンスやらペンリーやらをカノンのような形で並べ立てて、ひとつの「領域」として見なしたのは誰なのかとか、80年代~90年代初頭のオーディエンススタディーズの置かれていた情況とかに目を配る必要はありそうです。

ただ、ジェンキンスの「ファン」というカテゴリの問題化自体は、『テクスト密猟者』の元となる88年の論文のときから見られるので、出版に当って盛大にぶち上げたということでもないようで。

結局、88年論文の後で映画史とも大衆演劇史ともいえそうなバリバリの社会史の本を書いたりしているし。

彼の中で社会史の著作と、現代のスタートレック・ファンのエスノグラフィがどのような関係があるのか、いまいち見通しづらいです。

参考文献 ・Henry Jenkins, 1992, Textual Poachers (Routledge) ・Kristina Busse & Jonahan Gray, 2014, "Fan Cultures and Fan Communities" in The Handbook of Media Audiences (Wiley Blackwell)

『ファンダム:メディア化された世界のアイデンティティとコミュニティ』の感想とか

Fan Studies(以下FS)という領域

ここ数ヶ月くらい、週末を使ってFSやその始まりの人たるヘンリー・ジェンキンスのこととかを掘ったりしています。

もともと、なにかに熱中して取り組んだり、なにかの愛好を熱烈に好きだったりする人に関心があって、ファンのファンを名乗ったりしていたこともありました。

とりあえず、その人たちのことを対象にしてなんか卒論を書こうとか思って調べていると、Fan Studiesという領域があることを知り、「よし、この領域で認められる論文を書こう」と思っていたものの、そもそもこの領域の成り立ちとか問題設定とか気になって3年くらいが経ちました。 (結果、最初の本望はまだ達していないし、どういうかたちでFSでの新規性を出せば論文になるのかわかっていない。)

ここ数年でやたら教科書が出てるし、英語が読むの遅いし、日本語の「ファン研究」と言われてる本が論じてるものと距離がある気がするし、とか思っているうちに全体像もつかめないままの3年間でした。

FSについてとりあえず動向や領域としての関心を知るうえで、日本語で読めて役になったのは、次の2つでした

バージニア・ナイチンゲール&カレン・ロス「ファンとしてのオーディエンス」『メディア・オーディエンスとは何か』所収池田太臣「共同体,個人そしてプロデュセイジ──英語圏におけるファン研究の動向について──」

特に池田論文はめちゃくちゃ参考になったのですが、参照されている文献にもあたってみたいと思い、同論文のベースになっているレビュー論文が収録された『ファンダム:メディア化された差世界のアイデンティティとコミュニティ』とかを読んだりした。

『ファンダム:メディア化された世界のアイデンティティとコミュニティ』の第一版

最近第二版が出て、こっちはこっちで最近の情勢を踏まえた壮大な構想とか、ジェンキンス先生との距離感とかがうかがえて面白いのですが、とりあえず今回は第一版の中で興味を惹かれた点と感想を書きます。

本書の特徴

①論文が非常に短い、テーマについての試験的な考察や不十分な論証、概要紹介になっているものがおおい 本書は六つのテーマに分かれていて、全部でイントロを含めると27の章から成っています。ひとつの論文は10ページ教と短いです。そのため冒頭で対象を紹介する際にも、なぜその対象を選ぶのかの意義が説明されていなかったり、どのような調査を行ったのかについての書き込みが少なかったりします。問題意識とそれへの答はわかるけど、その問題意識の共有とかアプローチの開示にそれほど熱を入れていない感じ。

ただ現在のFS(といっても10年以上前ですが)にとっての重要なトピックを一望できる点では優れていると思います。

②「第三の波」

二つ目に気になったのは、全体として冒頭のレビュー論文が非常に本全体のコンセプトを明示しているな、ということです。

冒頭のFSについてのレビューは、領域の歴史を「三つの波」という観点から整理した、いわばレビュー論文となっていますが、同時にこの本が「第三の波」という潮流に立つことをはっきりと示しています。

いいかえると、編著の立場を示すことを目的にされた整理なので、そのへんの意図を考慮せずにFSのマッピングをしたものとして鵜呑みにするのはちょっと危険そうです。

ちなみに第三の(つまり現在の)FSの潮流として見なされていることはいくつかありますが、ひとつ読みとれるのが、fan的(fannish)な消費や社会現象との関係の持ち方――感情的・情動的な対象への関与とか――が非常に一般化したので、別に対象を従来のFSが考えていた創造的・対抗的・集団的なfanの実践に絞る必要はないよね、という見方です。 (これはちょっとうろ覚えなのですが、『ファンダムの理論化』の各論文の背景に透けて見えたのが『テクスト密猟者』と『ディスタンクシオン』だったと思います。それに対して本書(特に前半)の論文の背景に透けて見えるのは、アバークロンビー&ロングハーストの『オーディエンス』に書かれた消費者像のように見えます。これについては、別の機会に『オーディエンス』を読み直したときに触れられればいいなと思っています)

③問が分かりにくい

論集の中の論文を、問・対象・方法・結論という形で表にまとめようとして気づいたことですが、論文が解決しようとする問が書かれていないものが多いです。論文ひとつひとつで主張は結構早くから明示されているのですが、なぜそのような主張をするに至ったのか、論文の抱える問題意識や、そこから導かれる問題設定を明示していないものが多くあり、これはまとめ方をちょっと間違えたかなと思いました。

向こうのFSの潮流に明るくないので、そもそもなぜこんな主張をする必要性があるのだろう?という疑問の方が先に来ます。

雑感

論集として見ると、各論文に不満な個所は多くあります。

ただ、冒頭のイントロダクションは、内外の研究でも非常に多く参照されているのを見ますので、てっとり早くFSの潮流を知りたい人にとっては有用だと思います。あとジェンキンスのAfterward(26章)も、ジェンキンスの今いる位置や、1992年時点からの(彼自身および世相の)変化に対する意見、彼がFSに対して持っているアンビバレントな態度、そして本書全体の中での浮きぶりがわかって面白いと思います。

日本人研究者としてFSの領域に顔を突っ込みたい自分としては、各地域でfandomという言葉や背負う文脈の違いに戸惑う研究者の声が聴ける、ハリントン&ビールビーの世界各地のファン研究者についての調査(これは本書以外にもいくつか別のところ発表されていますが)も、面白いと思います。

あと将棋ファンに関する歴史研究、というテーマに引きつけての感想なんですが、カヴィッチの19世紀の音楽愛好者に関するエッセイは、テレビや映画の「オーディエンス(視聴者)」としてのfan像と、そういったテクノロジーがない時代の「オーディエンス(観客)」の連続性に注目すべきと言っていて、参考になりそうでした。別のアンソロジーの章で、歴史的なファンの探究というときカヴィッチが頻繁に参照されていて、「あれ? スプリングスティーンのファンダム研究していた人じゃなかったっけ」とかボケたことを思っていたのですが、確かにこういうエッセイも書いていました。

最近の調べもの

ブログ

就職してからも、週末にだらだらと本を読んだりしていましたが、これでは論文なり研究ノートなりにまとめたときどういう成果になるのかわからないままぼんやりと知識を得るだけになっていました。

なので、ブログ記事という形でも、アウトプットを想定してインプット(読書)をするために、読んだ内容とか考えたこととかをちょっとでも構造化して書いていければと思っています。

最近お勉強しているもの

  • Fan Studiesの原点として位置づけられる『テクスト密猟者』の書かれた背景の解明

    • 初期FSがこぞって注目していた「メディア・ファンダム」はなんなのか
    • どういう点でオーディエンス研究にとっての注目すべき対象になったのか
    • SFジャンルの愛好者たちの実践とFSの関係
  • ヘンリー・ジェンキンスの経歴とか関心の変化

    • Ph.Dでの研究から『テクスト密猟者』までの関心の変化
    • メディア史や社会史との関係
    • MITでのComparative Media Studies設立に至る経緯
  • 将棋愛好家(将棋ファン!)たちの実践の条件の変化とその中での「専門棋士」集団の成立

(次記事へつづく)