『オタク的想像力のリミット』雑感(ファン・スタディーズと「オタク研究」の関係) 

ファンスタディーズの歴史を掘っていると、「ファン」というカテゴリ自体がとてもスキャンダルであるということを出発点としていたり、実際に取り上げられたのがSF出自のコンテンツの消費者であったりということを知るにつれ、なんだか日本の「オタク」っぽさを感じざるをえなかったときから、ファンスタディーズと「オタク研究」という知は、どんな点が同じだったり似ていなかったりするのかが気になります。

『オタク的想像力のリミット』を読みなおしたら、末尾の宮台インタビュー(の再編成)で面白いエピソードが書いてあったので、備忘録的にメモ。

インタビュアー(辻泉さんと岡部大介さん)によると、編著者のひとりである伊藤瑞子さんが本書の構想をしていたとき、アメリカの「WASPのファンカルチャー研究」と「オタク論」を「あえて」接続しようとしていたらしい。けれど、その試みは失敗したらしく、その理由が「アジアに対する根強い差別」が残っていたからと(p.507)。いったいどういうことなんだろう。

伊藤瑞子さんは、ヘンリー・ジェンキンスといっしょに「デジタルメディアと学習」という研究グループにいて共同の対談集を出したりしている人(MITメディアラボ所長・伊藤穣一の妹)。ギーク文化や若者のメディア利用を対象とした本を書いてて、当然欧米のファンスタディーズの動向についても熟知している。その人が、両者を「接続」しようとしたというのだけど、具体的に「接続」ということで何をしようとしていたのでしょうか。

それから、「アジアに対する根強い差別」が「超えられない壁」になっていたという点も、これだけでは何を言っているのかわかりません。編集者から差別的な返答を受けたのか、他の研究者に駄目出しされたとき差別的な発言を受けたのか、何に対しての差別的言動だったのかとか。差別的ととらえられた言動があった以上、誰が・なにに対してなどと第三者が軽々に聞くのもはばかられますが、いつの日か詳細が知りたいです。

ちなみにこれをうけて宮台さんは、日本のコンテンツが社会の中の周辺的な人々から享受されやすいことを指摘して(言い換えると、それによってファン研究が対象とするコンテンツは、「中心的」な人々から享受されやすいものを対象としているとほのめかして)、両者はつながるはずがないと述べています。

ファン研究が対象としていた人が(少なくともSFコミュニティで)周辺にいた人だったり、ファンカルチャーとマイノリティのエンパワーメントという近年のテーマをよく見ることを考えると、中心とか周辺は相対的なものとして考えた方がよさそうなので、なんかこのコメントにはのれませんでした。